プログラミングに数学を感じるのは(2)

プログラミングはすごく数学に似ています。似ている、というのは、考え方はもちろんのこと、理解の仕方や積み重ねで勉強していくところとか、勉強の仕方も似ている・・というより、私はもろ数学だと思いました。

「学校(小学校から高校)で習う数学は、本当の数学ではない」と私の中学時代の数学の先生は言いました。「大学に行ったらさっぱりチンプンカンプンで、それでも数学という学問の、大海原の一滴を見たに過ぎなかった」と言われましたが、私もそのとおりだと思います。

確かに、高校までの、問題から答えを導き出すような数学は、数学を使ったパズルゲームのようなもので、基礎的な数の扱いに過ぎません。積み木遊びのような。それでも、積み木遊びが幼児にとってはとても大切な良い遊びであるように、数の扱い方や計算、順序だてた物事の考え方など、身について役に立つことはたくさんあります。

プログラミングも目的に向かって一つの解答を導くものです。こういう風に動かすにはどうしたらいいか、という問題があるとしたら、公式をつかって組み立てていきます。組み立てていくときには、順番(論理)というものがすごく重要で、いろんなパーツを順序良く当てはめて解いていくパズルと似ています。そして、一つの解(プログラム)が導かれますが、それは一つではなくて、色々な解き方があるというところも同じです。

いろんな公式が増えていって、それを組み合わせ、前に使ったものを土台にしてどんどんピラミッドのように積み重ねられて複雑な大きな問題も解けるようになる、というところも同じです。

公式を知っただけでは問題は解けなくて、いろんなパターンの問題を実際に解いてみて、使い方もいろんなパターンで身につけて初めて解けるようになるというところも同じです。メソッドを教えてもらってプログラミングしてみても、最初は大抵うまくいかないことがほとんどです。トライ(トライアル)・アンド・エラーの繰り返しです。そして、公式も最初に覚えなくても使ううちに自然に覚えていくように、コードも打ち込んでいくうちに覚えていきます。

その過程には「そういうことだったのか!」という発見もたくさんあって、そして解けたときの喜びは、問題が難しければ難しいほど、大きいものです。

・・というわけで、数学は、プログラミングの為にあるのはもちろんのこと(笑)、詰まる所、数学も、プログラミングも、ゲームだ (から面白い)ということがわかりました😆 

プログラミングに数学を感じるのは(1)

プログラミングでゲームづくりをしてみてよく思うことは、数学と近いということです。

まず、数学をよく使います。でもこれはプログラミングだけではないでしょう。何か物づくりをしようと思ったら、図形や曲線、動きの距離や速さや加速度など、数字が必要になってきます。

数学はどちらかというと、教科の中では嫌われ者のイメージです。積み重ねの学問なので、ひとたびわからなくなるとその先からはもうついていけなくなって、一旦苦手になると嫌いにならざるを得ないですし、難しいと言えば難しいのかも知れない。

だから、よく言われるのが、「数学なんて将来役に立つのかよ。三平方の定理、三角関数、そんなもの社会に出てから使うか?」という将来の自分に数学不要説。

こういう言われ方をするのは、数学が顕著だと思います。「それ将来必要?使う?」あまり他の教科では耳にしません。

だけど、考えてみたら、体育や部活の、野球にしたってサッカーにしたって、実際に将来それを使うなんてプロの競技者くらいなものです(体力強化や娯楽でという意味は別として)。でもそれを無意味だと言う人はいない。やっていて楽しいからです。

だけど数学は楽しくない。嫌い。だから「こんなものやって何になる!」と言いたくなる。(気持ちは分かる)

けれど、いつか新聞記事で、社会に出てから役にたった教科は何かというアンケートで「数学」が一番になっていました。意外でしたがやっぱり、と思いました。世の中のもので数が関係ないものはないからです。

ゲームをつくるにも数学はたくさん出てくるわけで、そこで、「数学はゲームのために必要なんだよ!」といつか先生が言われた言葉ですが、私は溜飲の下がる思いが致しました。

「そうなんだよ!みんな数学が嫌いでそんなもの要らないって言うけど、みんなの大好きなゲームは、数学がなかったら作れないんだよ!ゲームが楽しいのも数学のおかげだ!もう要らないなんて言わせない!」

(元々は数学は物理のためにあるというのが正しいです。数学は物理学の計算部門が独立したものだからです)

本能をくすぐるゲーム

もう一つ、男の子だな〜と思った話です。

CodeFriendsの授業で、「収穫せよ」というカリキュラムがありました。一通り技術を教えてもらって、みんなで共通のテーマで作るということになりました。

セーブ機能を使ってコレクションをするというゲームなので、まず何を集めたいかということで、みんなの意見で候補を挙げていき、その中で希望を一人二つずつ言って一番多かったものにしようということになりました。

ところが、「武器」と「切手」が2票ずつの同数になってしまい、この二つで決選投票ということになりました。この時点で私は、ああ武器で決まりだなーと思いました。その日の出席者は5人で、男の子4人に女の子1人だったからです。

だいたい、集めたいものが武器というのもなかなかのものです。短剣とかソードとか銃とかハンマーとか、現実に持っている子なんていないはず。でも、みんなゲームをやってきているので、最初は木の棒からはじまって、銅の剣、銀、・・勇者の剣とどんどん武器もいいものになって強くなっていくというRPGの定石を当たり前のように共有しているからこそだと思います。

現実生活で、本来の目的のために武器を集めていたら、ちょっと怖い話です。

でも、ゲームの世界だから当然許されて、男の子たちはかっこいい武器が大好きです。案の定、武器に決まりました。

次に、それぞれ何の武器の絵を描くか、という話になりました。そこで紅一点のKちゃんが描くことにした武器は・・「木の枝」と「爪」でした。なんてかわいらしいのでしょう。(もしここで、すごい武器を選ぶ女の子がいたとしても、私はそれはそれで感心します)

武器のコレクションも男の闘争本能をくすぐるものなのでしょう。

では女は何でしょう。女の本能と言って思いつくのは母性本能ですが、ただしこれは隠されてもいないし、抑圧されてもいないと思うのです。むしろ子供ができると全開と言いますか。

そこで、私が母性本能をくすぐるゲームであろう、たまごっちをやった時の話です。

最初のたまごっちのブームの時、私はまだ独身で、仕事も忙しくそれどころではなくて、ブームとか品切れとかになって世間ではすごく流行っているんだなと思った程度でした。

新しくなったたまごっちをやったのは、2、3年前だったと思います。娘に頼まれてやりました。私がゲームをやるとしたら、たいてい子供達に頼まれることが多いです。

はじめてのたまごっち・・やるからには一生懸命やりました。初めての場面が出てくるたびに、娘にどうしたらいいかを聞きながら、条件をすべて満たすと「たまとも」になれるので、すべてを最高まで満たして「たまとも」にもなりました。

そして始めてから4日目ぐらいだったと思います。「お見合い」があったので、娘の言うとおりに相手を選び・・すると「結婚」ということになりました。

無事、結婚となって相手とトランクを手に旅立っていく場面・・そこで自分でも信じられないことが起こりました。

あの小さな画面に、生まれてからの今までの出来事が、流れ始めたのです。お嫁に行ってしまう娘の、赤ちゃんのときからの成長の記録・・お金のかかった結婚式で、流されるような映像です。

私は、それを見せられて、号泣してしまいました。

たった3日育てただけです。しかも、ゲームのキャラクター相手にです。ゲームのキャラクターと言っても、あらかじめ仕込まれたストーリーです。たかだか誰かがプログラムして作ったものです。小さな小さな画面の、そんなものに対して泣いて、自分でもアホじゃないかと思いました。

この程度のものに対して、これですから、現実の自分の子供達の結婚のときは一体どうなってしまうのだろうと先が思いやられます。

でも、仕方がないのです。ゲームをやるにしても、本能だけでなく、自分の人生が投影されるのです。独身のときにやっていたとしたら、多分ここまでのことにはならなかったでしょう。たまごっちをとおして、自分の子育てが思い起こされてそれに対して泣けたのです。よく、「歳をとると涙もろくなる」と言いますがそれと同じで、それまでの人生経験が増えるほど、物事に対して感受性が働くのです。経験によって、いろんなことが呼び起こされて、琴線に触れるのでしょう。

人間が本来持っているものに加えて、経験から獲得したものを刺激されると弱いです。ともだちコレクションも、そういう場面があるらしいので、私はむしろもうやりたくないと思いました。ただ、赤ちゃんをあやす場面は大好きなので、そこの部分だけ、子どもに頼まれるとやっています。

どうまとめていいかわからなくなってきましたが、結論:願望を、ゲームの中でやれるのが面白い。抑圧されていればされているほど。しかし、ゲームですべてを満たすことはできない。

ゲームって男の世界だなって思う

いつもお世話になっている美容師さんは、店長で男性の方なのですが、美容業界に身を置くだけあっていつもおしゃれで、無頓着な私からすると別世界のような人です。

一人娘さんがいらっしゃって、年頃になってファッション雑誌を買うようになり、将来もお父さんと同じ道を目指しているそうです。娘さんにファッションコーディネイトのチェックをしてもらったりしているそうで、仲良しでいいですね〜と言いましたら、「いやいや、そろそろ父親から離れていく年頃で、こちらも必死です」と言われて、微笑ましいのと同時に意外でした。

なんでも、女の子はある頃になると父親の匂いが臭いと感じるようになって、自然と遠ざけるようになるとか。遺伝子の関係でそうなるという説があるそうです。

でも娘さんと仲良く過ごしたいと努力をしているなんて、偉いというか、よそのお父さんとあまり話をする機会もないのですが、やっぱり家族であっても一つの人間関係で、みんな言わないだけで努力されているのかなと思ったりしたのでした。

私は今のところそこまでの努力はしていませんが、女の子だけでなく男の子でも、形は違ってもやがて親離れ子離れの時はくる訳で、また別の愛の形で愛していかなきゃいけないんだな私はその時その寂しさに耐えられるだろうかとか準備をしていこうとふと思う今日この頃です。(案外平気かもしれませんが)

考えてみれば男の子と女の子ってずいぶん違うものだなって、プログラミングをとおしても何度か考えさせられました。

プログラミングで何かゲームを作ろうとなったとき、何を思うのでしょう・・。ゲームの王道といえば例えばシューティングゲームがあると思うのですが、申し訳ないことに、私にはこれが浮かびませんでした。

猫ちゃんをなでる、とか、球が行ったり来たりとか、すごろくみたいなものとか。自分が好きだったゲームに似たものということもありますが、シューティングというのは、男の本能からくる思考・志向・嗜好だと思うのです。

戦闘機から弾を発射して、敵機を撃ち落とす・・・考えてみたらなんて物騒な・・女の脳の初期値にこういうものはインプットされていません。それどころか、私は女子にしてはずいぶんシューティングゲームをやったと思いますし(弟に付き合わされた)、嫌というほど見せられたりした(これまた弟のすごい腕前をたくさん)にもかかわらず、発想に出てこなかったのです・・。

元々コンピュータの世界というものが、理系で、男っぽい世界で、男の人の嗜好で作られていったものがコンピュータゲームなのだから、当たり前と言えば当たり前なのかもしれません。

先日、教室のお父さんが、子供の頃から集めて大切にされてきたゲーム機を持ってきて見せてくださいましたが、やっぱりどれも男の子の世界を感じました。

私の周りで女の子もゲームをし始めたのは、ゲームウォッチが最初なのではないかと思います。流行っていた頃はみんな一人一機ずつ持っている感じで、それをお互いに交換して遊んだ思い出が、最初のゲームの思い出です。

私の主人は、ある専門的な仕事をしていますが、パッと見、その職業であることを言い当てられる人はまずいません。その職業の仕事柄とはかけ離れた雰囲気だからです。主人のいいところは、信じられないほど温和で穏やかで優しいところです。声を荒げたりすることもありません。人と揉めたり争ったりすることが何より嫌いな、実に、平和的な人です。

そんな主人の趣味というか、好きなものは、なぜか戦車や戦闘機、いわゆるアーミー愛好家です。私にはあまり理解できない世界です。ドイツと言えばティーガ?戦車とか、アメリカと言えばコルセア?だとか、どれがかっこいいとかどうとか、本棚を見れば「世界の駄っさく機」とか「陸軍下士官兵よもやま物語」のシリーズとか、「ああ海軍予備学生」とか(今見たらまた何か増えてる・・もうやだ)、「丸」とかいう雑誌の古本を見つける度買ってくるので処分したい私と一悶着したり、好きな話はたしかノルマンディー作戦だったかな、戦争物も好きで・・戦争ものの話というとヒューマニズムを描いて美化していますが、私は、極限状態でのヒューマニズムは確かに素晴らしく感動的で、それが嘘だとは思いませんが、一方で戦争という極限状態ほど人間の本当の醜さというものが出るところもないと思うのです。ただ、醜すぎて、そんなものは映画や話にもできないのではないかと思っています。

私が理解できないというか不思議に思うのは、その趣味の内容というより、どうしてそんな温和で争いごとも嫌いな主人がそんなものが好きなのかということなのです。聞けば、「別に戦争は好きではない」と言います。確かに、主人に限らず、戦争が好きだとか戦地に行きたいなどという人はほとんどいないでしょう。

でも、現にそういう本がいっぱいあって、愛好家がたくさんいるのです。惹かれている人がたくさんいるということです。

「戦争が好きなわけではない」と言いながら、私にとってはまず戦争(人殺し)ということが連想されてしまうものが好きということが理解できなくて、リビングに戦車や戦闘機の模型を置くことに抵抗を感じてきました。

しかし、思わぬところでこれってもしかすると男性の本能なのだから仕方ないのかもしれないと考えさせられたのでした。

それは、CodeFriendsに通い初めてから間も無くのこと、教室で使っているエディタには投稿というか、スクール内で閲覧できるようにリリースするスペースがあって、そこにTちゃんのお父さんが作られたというゲームがあり、授業の中で紹介されたのでした。

それを見て私は衝撃を受けてしまいました。

なにこれ、うちの主人の脳内と同じじゃない!?・・・(Tちゃんのお父さん失礼だったらすみません。悪い意味じゃないです!)

それはTちゃんのお父さんが初めてやったゲームを再現されたものだとか。手前から大砲を向こうの船に向かって撃つと当たって爆発して燃え上がるという、遠近感が素晴らしく表現されている美しいグラフィックです。

そして思いました。・・主人だけじゃないんだ、男の人ってたいていこういうのが好きで頭の中にあるのね・・。

雄は、激しい生存競争の中で、自分達の子孫を残すために、強いものが戦いに勝って伴侶を獲得してきたという生物としての長い歴史があって、「闘い」というものが、あらかじめ本能にあるのでしょう。強そうなものがかっこいい、戦闘に勝たなければ生き残れない、戦って勝ちたいといういわゆる闘争本能というのでしょうか、だから男の人には元々そういう本能が、歴史上の人間同士の戦争というもの以前にあるのだろうなと思ったのでした。

つい先日手にした「ゲームシナリオ作法」(川邊一外著)という本にも書いてありました。

「ゲーム」は、人間の闘争本能に基礎を置いています。
闘争は、個体保存のかかわる人間の基本的な欲求の一つです。
 Gameとは、もともとjoy(悦び)を意味する古代スカンジナビア語gamanに由来するといいますが、食欲や性欲と同じように、人間の本能的な欲求に、常に強烈な快楽がまつわるのは面白いことです。
 ルールによって闘争にかかわる流血や死の要素を除き、快楽の部分のみを抽出したシステムが、ゲームというものです。

でもこれは、男の人にとってのゲームだと思うのです。人にもよると思いますが、女性にはそんなに闘争本能はないと思うからです。

先に、コンピュータというものが理系で、男性的でと書きましたが、理系文系というのもここではあまり関係ないかも知れません。

戦争ものの好きな主人は文系でパソコンもできませんし、私は高校のときから理系クラスで、パソコンも好きです。

もしかすると、実生活では極めて平和的なうちの主人は、秘められた闘争本能を、趣味の世界で解放することによってバランスをとっているのかも知れません。そう思い至って、はじめて主人の趣味に対して少し理解できたといいますか、それまでよりも寛容な気持ちになれました。

主人に限らず、人は、ゲームという趣味の世界で、抑圧された闘争本能を解放して心を満たしているのですね。

ということは、女性にある本能といえば、母性本能です。これを満たすようなゲーム・・たまごっちじゃないでしょうか。でも、別に母性本能は抑圧されているわけではないので、また違った反応が出るということを、私は実体験したのでした。(続く・・?)

主人が今やっているゲーム・・30年越しのゲームクリアなるでしょうか

愛されて憎まれて、ゲームはみんなを救っているのかも

初回の授業の自己紹介であった、教室で好きなゲームを皆に発表するという場面は、学校の教室ではありえなかったということを思い起こさせ、子どもにとってというだけでなく、私自身の中の、ゲームというものに対する抑圧に気付かされた場面でもありました。

この時、実は子どもたちだけではなく、保護者に対しても「昔やったゲームや好きなゲームを教えてください」と言われました。その時、私はまさかそんなこと聞かれるとは思っていませんでしたので、順番が回ってくるまでの間に思い出そうとしたのですが、何しろ初めての教室で先生も周りも初めて会った人たちばかりで親子で緊張していましたし、子どもがちゃんと発言できるかなとか余計なことに気が行って頭が回らなかったこともあって、ロクに思い出せず、「ドラクエとか・・有名どころは一通りやりました。ずっとやってませんでしたが最近久しぶりにWiiUのスプラトゥーンをやってみたら面白くてはまりました。」ぐらいしか言えませんでした。

あとから、よく考えると、ゲームの思い出はいっぱい出て来ました。すぐには何も浮かばなかったというのも、考えてみれば私自身他人にましてや集団の中でゲームについて話すことなんて今までになかったし、その為に思い出すこともなかったからだと思うのです。

いや、正確に言うと、ありました。話題になることは何度もありました。でもいつもそれは否定的な意味でした。

それは、主に学校で。ゲームはほどほどにさせましょう、ゲームをやる時間は制限しましょう、約束を決めましょう、さらには、ゲームのせいで子どもが勉強しません、ゲームばかりやっていますどうしたらいいですかetc…

この話題が出てくると、私はまたその話か、と思っていました。正直、私自身は自分の子育てにおいてゲームに関してこのような感情をもったことがないからです。

大きな声では言えませんが、我が家ではゲームに関する決まりがほとんどありません。ほとんどというのは、一つだけあるからです。それも最近できたもので、それまでは何もありませんでした。それは、「WiiUは宿題が終わってから」です。でも、他にもDSとかPlayStationとかファミコンとかゲーム機は何種類かあるので、実質ゲームはやりたい放題です。子どもが一番やっているのもDSですし。

このWiiUに関する約束も、子ども達が自分で決めました。WiiUを買うとなったときに、期待が大きすぎて、夢中になりすぎて困るかもしれないからと言って、決めたのです。実際はそこまでの魔力はありませんでしたが、自分で決めた約束のせいか、絶対に破りません。いいじゃん、やろうよと私が誘ってもやってくれません^^;

それでも、勉強もちゃんとやって、下の子はほぼ9時半、上の子は10時に寝るので、困ったことがないのです。

大きな声で言えないというのは、やっぱり親同士の中でもゲームに対してネガティブなイメージが当たり前と私は思っているからです。

ゲームは一日○時間まで、とか約束にしているご家庭が多いのではないかと思います。学校からもいつもそのようにするように言われます。それをきちんと守って、楽しく遊んでいる子も多いと思います。

親との約束がなくとも、自分の中できちんとコントロールできているお子さんもいらっしゃいます。

それなのに、なぜか大きな声で堂々と訴えられるのは、ゲームばかりやっていて困る、ゲームの約束事を守らないので困るといった、ゲームによる被害(?)なのです。

私の中でなぜか忘れられない話があります。もう何年も前ですが、ある保護者の方が、うちの子がゲームばかりして困っているという話を、すごい勢いでされたのです。まだそんなに学年は上でなかったので、確かにその年でその依存の仕方はちょっと酷いかなという・・詳しく書けませんがとにかくずっとゲーム、勉強も全くしない、夜も寝ないで遅くまでやっているというお話でした。

そのとき私は相反するような二つのことを思いました。一つはそこまであけすけに正直に話せるなんてすごいなということと、もうひとつはその裏返しのようなことですが、もし私だったらそこまでの状況をここまで話せない(なぜそこまで言う必要がある?)ということでした。

どうして話せないのかというと、もし自分の子がそうなったとしたら、その責任の一端は親(自分)にもあると思うからです。そもそも、ゲームを買い与えたのは親だし、そこまでゲームにはまるような状況になった家庭の状況というものは何なのだろうと。だから、なんでそんなことを、わざわざ先生や大勢の保護者のいる前で言うのだろう?と思ったのです。

私がたまに読んでいる教育系のメールマガジンでも、ゲーム、スマホに困っているという保護者の話が本当によくでてきます。

子どもはどうしてそんなにゲームをするのでしょう。もしかすると、ゲームが逃げ場になっている側面もあるのではと思うのです。この場合の逃げ場は、私は良い意味で言っています。

人間、誰しも闇を抱えています。人生はある意味、寂しさとの闘いです。寂しい、理解してもらえない、否定されてつらい、人がいつもそれを真正面から克服できるとは限りません。そんな時、安息できたり快感が得られたりするものに逃げることで、やっとやっと自分を保つことができるということがあると思うのです。

人からはガミガミ怒られてばかり、何か言っても否定される、褒めてもくれない・・でも、ゲームは決して私に怒ったりしません。否定もしません。ときに褒めてくれたりもします。楽しみながら達成感も得られます。ゲームが好きになって当たり前だと思うのです。

かく言う私も、ゲームではなくても、いろんなものに逃げることで、言い換えれば依存することで、これまでの人生を生きながらえてきました。依存というのも、要は程度の問題で、お酒でもギャンブルでも、適度ならいいのです。関わり方が問題なのであって、存在自体が悪なのではないはずです。(薬物とかストーカーとかDVとか命に関わるほどの依存になると、また話は別です)

現実逃避的でなくても、純粋に楽しいから、好きだからという前向きで明るいゲームとのお付き合いも当然あるわけで、どちらにしても、ゲームは魅力的なんです。

でも、そのゲームが大好きになった人の周りで、ゲームを憎む人が生まれるというこの現実・・そんなことを考えていて、私ははたと気付いたのです。私は、「自分の子どもがそんなことになったら人に言えない」と思いました。それは、「そんなことになったのは元はと言えば親である自分の責任。そして、そのように人からも思われる(あなたの育て方が悪いのでしょうと責められる)」と思っているからに他なりません。

つまり、そんなことになったら自分を責めるばかりでなく、他人からも責められると思っている。それが、辛いからなんです。

子育てのことで、自分を責めたり、他人から責められたりするのは、本当に辛い。ただでさえ、苦労ばかり多くて認められることのない仕事です。だったらどうするか。子どもがゲームに逃げるように、親は、ゲームのせいにすることで、子どもの問題を自分の責任から少しでも逃したらいい、となる。

そう考えると、さきに書いた、子どものゲームへの依存ぶりをぶちまけていた人の話も私の中で辻褄が合ったのです。ああ、多分あの人は自分が悪いなどとは微塵も思っていなくて、いや、思いたくなくて、すべてゲームの存在が悪いということにしたいんだな。ゲーム機を買い与えた自分の行為や、ゲームと上手に付き合えるような環境づくりに失敗してしまったことも棚にあげてしまって、ただこの世にゲームがあるからうちの子はゲームばかりして勉強もしなくなってしまったと、憤ってみせて、そうして、「うちの子が勉強をしないのは、私が悪いんじゃない、ゲームが悪いんです」きっと、先生や他の大勢の人たちに、そうアピールというか、責められる前に予防線を貼ろうとしたんだなと。

おそらく意識はしていないのでしょうけれど、そうしてゲームのせいにすることで、大人も無意識に自分を守ろうとしているんじゃないかと。我が子が勉強をしないという現実が、辛いから。そのことで責められたくないから。

そう考えると、結局、子どもも大人も、ゲームというものの存在に救われているんだと・・実は、ゲームのせいで云々と言っている人ほど、ゲームが無くなったら困るのかも知れません。(そうなったらそうなったでまた別の責任転嫁の対象を探すのでしょうけれど)

だから、結局みんな、ゲームを頼りにしてるんです。ゲームが好きなんです。\(^^)/ワーイ

初回の授業で驚いてそして気づいたこと

 

とりあえずCodeFriendsにバタバタと入会となって、一週間足らずで初回の授業日がやって来ました。

先生がどんな人かも、どんな雰囲気なのかも、何をやるのかもさっぱりわかりません。

そこで私は、いきなりびっくりしてしまうのです。びっくりしたというと、少し大げさかも知れませんが、意外なことがあって、そのことでいろいろ考えさせられた、というのが正確かも知れません。

それは、自己紹介のときのことです。先生から、名前の他に「呼び名、住んでいるところ、最寄りの駅、それから好きなゲームや好きなYouTuberを教えて」と言われたのです。

今からすると何が?という感じなのですが、「みんなの前で(堂々と)好きなゲームを発表する」ということが、今までにはないことで、学校では考えられないことですから、ちょっと驚いて新鮮だったのです。

私が学生の頃、TVゲームをやるとバカになるとか、犯罪を助長するとか言われてました。それはもう、ゲームは諸悪の根源のような言われ方だったような気がします。

今はそれほどまでに表立って言われていないにしても、「子どもは(TVゲームなんかしないで)外で元気に遊びましょう」は根強くあるのではないでしょうか。

要するに、「子どもからはなるべくゲームは遠ざけるべし」。全くやらないのは無理にしても、なるべくやらないのに越したことはない、こういう考えが教育現場とその周りには前提としてあるように思います。

だから、子どもが堂々と「ゲームが大好きです!昨日もゲームをやりました!」なんて学校で先生やみんなの前で言うことなんてないわけで、当然、好きなゲームを発表するなんて考えられないのです。友達同士で話をするのがせいぜいですが、それすら許されない雰囲気があるように思います。

息子が小学校のとき、こんなこともありました。学校で、友達とゲームの話をしていたところを先生に見られたようで、あの子はゲームの話ばかりしていると思われたのか(実際は息子はそこまでゲーム好きではありません。確かに好きですが、普通かそれ以下だと思います。周りを見れば、もっとゲームをやっている子、詳しい子達がいます)、あるとき先生から、「あの子はゲームで友達を作る子ですね、気を付けなければいけませんよ」と、いかにも感心しないという様子で言われたのでした。担任の先生ではなかったので、さほど気にしなかったのですが、今だに何を、どうして気を付けなければいけないのかよくわかりませんが・・。

でも、子ども達はゲームが好きです。私もゲームは好きだし。現代っ子ですから、友達と集まれば、ゲームをやります。多くのお友達がDSを持っています。据え置きのTVゲームも多くのご家庭にありますし、うちでも、お友達のお宅でもゲームで盛り上がっていることはよくありましたし、もちろんゲームとの関わりについては各ご家庭でルールがありますが、うちでは本当に楽しそうにお友達とTVゲームやDSをやって盛り上がっていたのです。

でも、それを、学校で”公に”言うことはありません。子どもは日記として日々の出来事や感想を連絡ノートに書いて先生に出していました。低学年のときは週末だけ、高学年からは毎日でした。学校であったこと、帰宅してから家でしたこと、友達と遊んだことなどを書くのですが、そこに、「友達とTVゲームをしました」と書いてはいけないというのが暗黙の了解としてあるのです。

実際、私は「今日何書いたらいいだろ〜」と悩む息子に対して、「○○君とゲームしたこと書いたら?」と言ったことがありますが、「そんなこと書けないよ〜」と返ってきて、「やっぱそうだよね^^;」となりました。ゲーム以外のことで遊んだことは、堂々と書ける(むしろ喜ばれる)のに、です。確か、低学年のときに一度ゲームで遊んだことを書いて、「ゲームしないで外で遊びましょう」と書かれたこともあったように思います。

学校とその周りでは、ゲームははっきり言って「悪者」なのです。これについてはまたいろいろ考えさせられることがあって、また書きたいと思いますが、子ども自身もそれをひしひしと感じていて、学校ではゲームのことは秘め事のようになっているのでしょう。

だから、「堂々と好きなゲームを言いましょう」なんて、普段ありえないことですから、私自身驚いてしまった。驚いたことに驚いて、考えてみたら、そういうことだったんだと気付いた、という訳です。

本当は、みんなゲームが好き。もちろん、ゲームは楽しい分、依存の危険もはらんでいるから注意も必要なんですが、それを抑圧されているから、ゲームのことを話せたり、共有できたりする場があって、しかもそれにしかめっ面をしないでノってくれる大人がいたら、嬉しいですよね!

それが時にCodeFriendsの教室だったり、先生だったりする訳です。(つづく)

I love TETRIS!